自然を友に



ウグイスの鳴き声に目覚め、寝床の中でその歌を聞き入る昨今だ。今日の囀りはいつもと違って、いちだんと美声に聞こえる。
今住んでいるこの地は、都会にも近く、緑豊かで気に入っている。
思えば、東京の下町で生まれ育ったわたしは、自然環境の乏しい騒音と雑踏の中で生活してきた。
ニキビを気にする青春時代、銀座や新宿のジャス喫茶や後楽園、晴海などで遊んだものだ。同年代の男女の集まる場所へ行けば、取り残された気持から解放され、心が充実した。でも、そのひとときの楽しさから離れたとき、心の片隅には満ち足りない何かがくすぶっていた。
いつの日か、気が付いて見るとわたしは、山登りやスキーなど、都会を離れた趣向になっていた。このとき、自然を求め続けていた自身を知り、心に靄っていた霧が薄れていった。
うっそうとした木々をかき分けて、荒々しい岩肌を登り詰めていく。頂に立ち、吹き出す汗を拭いながら、眼前に広がる重畳な山々を見たとき、日ごろの煩わしさは深奥な山懐深く吸い込まれていく。それは、心の隅々の垢までもが、洗い流されていくようでもある。それは、青い大空の彼方に、心までもが吸い込まれてしまいそうになる。
大自然がわたしの心を温かく包み込み、自然の偉大さと、わたしの人生の方向を教えてくれているようだ。
花が咲き、鳥が囀り、虫たちが飛び回る姿を眺めていると、心が安らいで豊饒になる。
見詰めるそんな自然の流転は、坐禅を組んでいるときに感じる、何の執着も持たない「無心」のわたしを発見することがある。
自然の一部でもある人間が、「行雲流水」のごとき思考生活をしたとき、神秘的で偉大な自然を発見することができるだろう。いや見方を変えれば、神奥な自然を通じて、人間の深遠さを発見できるかもしれない。
これからのわたしの人生の中で、「花鳥風月」を求めた理想的生活は、夢の中の夢にすぎないかもしれない。しかし永遠のユートピアを求めて、自然と人の永久の係わりを追及していければ幸いだろう。




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