プール・サイドの宴



雨は、止みそうもなかった。
プール・サイドのテーブルを諦め、近くのガーデン・バーに腰を据えた。旅友のSさんとK嬢とカウンターに並び、冷えたビールを飲みながら話に花が咲いた。
登山が好きだという、Sさんはわたしと同い年なので、何かと気が合う。旅慣れたK嬢は歯切れの良い喋り方で、次々と旅のエピソードが飛び出してくる。
このバーは扉がないので、外のむっとする空気が漂っていた。でも僅かな風があるので、じっとりとした夜の熱気も、しだいに心地よさに変わっていく。
昨日もそうだったが、雨が急に降り出すといった不順な天気だ。それは、5月の後半からカンボジアは雨期に入るので、その前触れに違いない。
カウンターの中の小柄な若い女性は、クメール人らしい丸顔である。日本語は全く喋れす、我々の英語での注文に頷きつつ、終始微笑んでいる。
ひとしきり盛り上がった話が途切れたとき、扉も窓もない小さなバーを見渡す。
驚いたことに、辺りには雨を逃れてきたたくさんの招かれざる客(?)が集まってきた。白壁や天井の壁が、模様を描いているかと思われるほどいっぱいだ。それは、ほとんどが蚊のような虫である。でも我々に攻撃してこないから、蚊ではないのだろう。
その側には、大小さまざまなヤモリが動き回っている。次々と、蚊のような虫を食べている。ヤモリが捕食する様は、実に見事だ。そっと獲物に近づき、長い舌を素早く出して捕える、百発百中の技である。我々は壁や天井に目を奪われてしまい、飲むことも話すことも忘れてしまった。カウンター内のクメール嬢も、頬を緩めて眺めている。
床をみると、カエルのお出ましだ。茶色の子どもの掌大のカエルが数匹、獲物を狙っている。床の隅で置物のようにじっとしているが、長い舌を使って名狩人振りを披露してくれる。
そんな様を眺めていると、ホテルの中にいるとはとても思えない。
そういえば、アンコールの遺跡巡りをしている折、大蟻の群れに襲われて手足のあちこちを刺されたり、いつの間にか蛭が腕に取り付いていたりしていた。このシエム・リアプ一帯は、恐ろしいほど深い緑に覆われ、羨むほどの豊かな自然が広がっている。



しばらくすると、雨に濡れながら数名の若者たちが駆け込んで来た。仕事を終えた、このホテルの従業員である。
カエルと戯れているわたしに向って、「気にしない」と英語で言いつつ、素早くカエルを捕えてニヤリとした。クメール嬢と二言三言話し終えると、24、5歳ほどの青年が、わたしをチラリと見る。
「ここへどうぞ」と、英語で言いつつ隣の席を指さすと、にこやかな顔で腰掛けた。彼の周りに、3人の若者が集まる。青年の英語は、はっきりとしたイントネーションで分かり易い。
年齢の話になり、わたしのことを10歳も若く言う。K嬢は28歳と言うが、むろん彼女は、はっきりとは明かさなかった。すると、後にいた青年が、32歳と出し抜けに言った。すると彼女は、苦笑いしながら言う。
「そんなに老けていないわ! 初めてよ、そう言われたのは……」
一瞬話が途絶えたが、話題が政治に変わった。過去に日本の新聞でも、ポルポトのニュースがよく出た。そんな話になると、青年は眉間に皺を寄せて、両手を地に叩きつける仕草をしつつ、吐き捨てるように言った。
「ポルポトはだめだ!」
他の若者たちも、頷き合っている。
我々はビール、彼らはジュースで改めて乾杯をした。日本語とクメール語、それに英語で、何度も乾杯のグラスを上げる。彼らは、ほとんど日本語ができない。でも隣にいる青年は、日本語を勉強している」ようだ。近くに置いてあった、日本語の本を持って来る。どのページにも、たくさんの平仮名の書き込みがあった。その字は上手である。
「わたしの字よりも奇麗だ」
その言葉に、はにかむ青年。誤字を正し、書き方を教え、何度も発音を直してあげる。しばしわたしは、日本語教師役となった。
辺りは静まり返っており、このバーだけが賑わっている。話が途切れた合間だけ、雨音が主役となっていた。





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