アルルのゴッホ


華やかな民族衣装で着飾った、可憐な乙女たち。長いドレスをひらめかせて、颯爽と愛馬に横乗りするアルルの女。
ドーデの小説「アルルの女」の懐かしきイメージを今に追っても、しょせん幻に過ぎないだろう。
円形闘技場や地下回廊など、古代ローマ時代の遺跡が多く残るアルルは、美人の多いこてでも知られている。長い年月の間、複数の人種が混じり合ったために、エキゾチックな風貌の美人が生まれたのだろう。
古くから、芸術家に愛されたアルル。紀元前一世紀には、この地にぞっこん惚れたローマ皇帝シーザーが、町造りを始めたという。
画家ロートレックは、「南仏に行くならアルルにしな。美人が多いから」と、ゴッホに言ったそうだ。
そんな理由で、後期印象派の画家が、アルルへ行ったかどうかは知る由もない。
オランダ生まれのゴッホは、この地をこよなく愛していた。焼けつくような、プロヴァンス地方の太陽。吹き荒ぶ乾いた寒風・ミストラル。北国生まれのゴッホにとって、狂おしいほどの力強さで迫ってくる町の魅力に出合ったのだろう。彼の強烈な色彩と激情的な筆致は、アルルの地にぴったりと噛み合っていたに違いない。
ミストラルが吹き止んだ三日後、わたしはアヴィニョンからアルルを訪れた。プロヴァンスの明るい太陽や碧空こそ望めない曇天だが、冷たい風もなく、しだいに雲も薄くなってきたのでほっとした。
城壁に囲まれた町は、新旧の入り交じった融合の美を感じさせる、落ち着いた姿だ。どこへ行っても見かける、街路樹の巨木のプラタナス。それは、町の深い歴史を、如実に語りかけてくる凄みがある。今は裸木だが、若葉が芽吹き始めるころは、さぞや壮観であろう。
樹々に囲まれ、今は駐車場になっているこのラマルティーヌ広場辺りが、ゴッホの「耳きり事件」のあった場所だ。
それは、1889年に遡る。ある夜、共同生活をしていたゴーギャンが、ゴッホからアブサン酒の盃を投げつけられた。激しい個性の持ち主同士は仲違いし、翌日、ゴーギャンはアルルを去る。剃刀を持って、後を追ったゴッホ。その気配に気付き、ゴーギャンは振り向いた。そのときゴッホは、不意に自らの耳を切り落としたのだ。ゴッホはその耳を、娼婦のもとに届けるという、不可解な行為をしたそうだ。
「なぜだろう?」と、わたしの脳裏は思い巡らしたあげく、思い当たったのが闘牛である。「ゴッホと闘牛」とを結びつけるのは、無理があろう? あくまでも、わたしの想像である。
マタドール(闘牛士)が、見事に肩甲骨の間に剣を刺して牛を倒す。健闘を称える証として、牛の片耳か尾をマタドールに褒美として与えられる。これは、闘牛の慣わしである。ゴッホは、マタドールと娼婦とを二重写しにして、奇異な贈り物をするというこう異常な行動に出たのだろうか。
アルルは、ローマ時代に一万人の観客を集めたという、「円形闘技場」がある。外観は、ローマで見た「コロッセオ」に似ていた。これは意外に思ったが、フランスには円形闘技場が60ヵ所もあるという。イタリア以外で、ローマ遺跡の多い国がフランスという。
アルルの闘技場は、フランス一の大きさを誇るそうだ。現在でも復活祭の春から秋まで、ここで闘牛が行われている。
「耳きり事件」があってから、アルルの住民に危険視されたゴッホは病院に収容された。
現在ではその病院は、「エスパス・ヴァン・ゴッホ」との名で、図書館や翻訳学校などのカルチャー・センターになっている。ゴッホのアルル移住百年を記念して、オープンしたそうだ。
アーチ状の回廊に囲まれた、幾何学的な中庭の中央には、水の止まった噴水がある。刈り込まれたこじんまりとした木が点在しており、下植えの草花が咲き揃っていた。
1枚の大きなパネルが、傍らに展示されている。それは、入院中にゴッホが描いた、中庭の絵の写真だった。現在の庭と見比べてみると、木の配置は変わっている。しかし、噴水を中心に八等分された花壇や、建物は絵とそっくりだった。



ゴッホゆかりの物といえば、彼の絵のモデルとなった跳ね橋だ。アルルの中心地から3kほど郊外にあり、バスで向かう。
町を離れるごとに、緑が多くなってきた。冬とあって、ゴッホの絵のようなヒマワリの花は見られないが、彼が好んで描いていた糸杉がところどころに見られる。
槍のように天に突き上げている、ひょろ長い木が雄株で、横に枝が張り出しているのが雌株だ。中近東原産のヒノキ科の糸杉は、雌雄異株である。ゴッホが描いた、炎のように燃え上がる糸杉を見ていると、絵が今にも動き出すように躍動的だ。
沿道のところどころに見かける、トレーラー・ハウスの集団は、ジプシーの家群だという。アルルは、ジプシーが多いところだとか……。狭いトレーラーに出入りする、大人たち。その周りではしゃぎまわる子どもたちは、あどけない。
ゴッホの絵のモデルとなった跳ね橋は、小さな運河に架かっていた。辺りには、白壁で赤瓦のプロヴァンス地方特有の農家が建っていた。
舟が通れる状態に上がった橋は、防腐剤を塗ったような、艶のない黒色である。実はこの橋は、ゴッホの描いた跳ね橋ではない。1960年にこの地に移設されて、復元されたものだ。150年以上経っている跳ね橋で、重要文化財に指定されている。



耳を切り取った、ゴッホ。彼が入院していたアルルの病院から、自らの希望でサン・レミ・ド・プロヴァンスの精神病院に入った。ここは、「サン・ポール・ド・モーゾール修道院」だったところで、現在では小さな教会だけが、当時の修道院の施設として残っている。精神病院は十八世紀以来、現在も続いている。
門前にバスを停め、病院までしばらく歩くことになる。ひととき空が明るくなりかけていたが、再び雨空となってきたので足早となった。
石造りの二階建で、がっしりとした構えの病院だった。屋根はプロヴァンス地方の特徴である、半円形の瓦である。雨戸は薄い空色で、壁の灰色との色調が、暗い病院のイメージを倍加している。2階の右側から三番目の部屋に、電灯が点っていた。そこが、ゴッホの病室だったという。
きっと身近な人の見舞いに来たのだろう、ジャンパー姿の二人の青年は、病院の出口から門の方へと歩いて行く。」
案じていた遠方の黒い雲が、速度を上げてこちらに迫ってきたかと思うと、たちまち雨が振り出した。
正気のゴッホが、狂気のゴッホに変っていくような気配を感じる。わたしはあたふたと、隣の教会に飛び込んて雨止みを待った。
ゴッホは1年間この病院で入院した後、サン・レミを去り、パリ郊外のオーベル・シュル・オワーズに移り住んむ。
悲劇は、2ヵ月後に起こった。彼は自らの胸に凶弾を撃ち込み、37歳の短く、激しい生涯を終えたのだった。
ゴッホの名作「ひまわり」「アルルの寝室」や「夜のカフェテラス」を始め、二年間のアルル滞在中に、三百を超える作品を完成させている。これはゴッホが心底アルルを愛した証だろう。
雨は止むどころか、いちだんと激しさを増してきた。
わたしは薄暗い礼拝堂に閉じ込められながら、ゴッホの短いアルルでの生活を追っていた。





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