旅立ちの機内


搭乗券は「65E」だったので、「嫌な場所だ」と思った。
この席番号は、ジャンボ機では4人席の中ほどだ。アルコールなどを飲んで、トイレに立つことの多いわたしは、どちらかというと通路側を希望していた。しかし、通路側は総て塞がっていると言われれば、仕方がない。
機内に入り、込み合った通路をかき分けて後部へと進む。
シートを確認すると、通路側には年配の男性が座っていた。わたしの空席を隔てて、欧米系の若い女性が2人並んで席に着いている。どちらもブロンド美人で、愉し気にお喋りをしていた。
わたしが席に着くときに目が合って挨拶されたので、わたしも「ハロー!」と返した。「嫌な場所」のイメージは、もうすっかり消えていた。
機はエンジン音を轟かせながら、ゆっくりとエプロンを離れていく。バンコクまでは、6時間ほどだ。
わたしはこの瞬間が好きだ。今までの日常生活を断ち切って、旅人と名を変える、ときめきの一瞬である。
「さあ、出発だ!」と、心の中で叫ぶ。目的地までどれほどの時間がかかろうが、さほど気にならない。疲れ切って、ひたすら眠り続ける帰りとは違い、旅立ちは心が躍る。
長い機内の楽しみは、ワインやビールを飲みつつ、本を読んだり、レシーバーから流れる音楽に耳を傾けている。ほろ酔い気分に睡魔が襲ってくれは、睡眠をむさぼる。
わたしは水平飛行に入ってから、いつものように本に熱中していった。
どのくらい経ったのだろう、本から目を離すと、左隣の年配の日本人男性は居眠りをしている。右側のブロンド美人たちは、放映されているスクリーンを見ながら、小声で話しつつ微笑んでいる。その映画も終わると、手帳になにやら書き込んでいた。
本を片手にビールを飲んでいると、わたしの膝の上に彼女のペンが落ちてきた。ブロンド娘に手渡すると、手帳を閉じて笑みを浮かべつつ会釈した。そこから会話が始まった。
二人のブロンド娘は、カナダから来たという。バックの中の世界地図を出して、説明する。サンフランシスコ経由で、東京で5日間を過ごしてから、バンコク(タイ)、バリ島(インドネシア)を周るそうだ。何と、24日間の予定だという。
「リッチなバカンスだ。わたしはカンボジアを1週間で巡る、忙しい旅だ」
わたしの言葉に、二人は肩をすぼめ、両の手を広げる、欧米人のよくするポーズをとった。
ブロンド娘が広げた地図を指差して、カナダのロッキー山脈を指差しつつ、「ロッキー・マウンテン?」と聞いた。二人は声を揃えて、「イエス!」と陽気が返ってきた。これまた、美女に相応しい美声である。
やさしい単語を選んでくれ、ゆっくりと話してくれるので分かりやすいが、彼女たちはすぐに早口になってしまう。
わたしが小首を傾けて言葉に詰まると、済まなそうな顔で「ソーリー!」と言いつつ、ゆっくりと喋ってくれる。
テーブルの上にあるわたしの単行本が気になるようで、「何の本か?」と言う。
「日本語知っている?」と訊くと、体を揺さ振りつつ大きなジェスチャーで知らないと答えた。
「日本語は上から下に読む」とか、漢字を書いて見せてあげる。隣のブロンド娘はペンを取って書いてみたが、「やっぱりだめだ!」という素振りを見せて、ニヤリとした。
「日本は雪が降る」とか「カナダは寒い」など、たわいない話だが、会話が途切れてもどちらからともなく話が始まる。わたしの乏しい英語で表現できない部分は、ジェスチャーの助けを借りた。
それにしても、明るい美人コンビだ。「あなたたちは学生?」と問うと、「オフィス・ワーク」と言う。
話に熱中していて気が付かなかったが、機体はすでにバンコクの空港に向かって、降下を始めていた。







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