フランスワインの発祥地


松林が続く幹線道路から逸れると、ブドウ畑が広がってきた。
どの木も50〜60cmほどと丈が低く、ずんぐりとした樹形は盆栽のようだ。落葉している今、太い枯れ枝をだたっ広い地に、規則的に挿しているような光景である。
遠方の丘の頂に見える城は、かつては侯爵が住んでいたという。20年ほど前にホテルとして開業したそうだ。
「シャトー・ヌフ・デュ・パプ」のワイナリーは、アヴィニョン近郊のブドウ畑に囲まれて、ひっそりと構えていた。
小柄な中年氏の案内で、工場見学をする。樫の木で作られた樽が5段に積み上げられている。
数年前にポルト(ポルトガル)のワイン醸造所を見学したときは、むっとする温度だったことを覚えている。この工場は、それが感じられない。氏に問うと、室温は14度という。樽の間に取り付けられた湿度計は、70パーセントを指していた。樽の下の床面に敷かれている小石は、湿度を一定に保つためだという。
そういえば、先ほど見たブドウ畑には、一面に小石が混じっていた。これは、昼間の太陽の熱を夜も冷め難くする目的で、わざわざ敷いたものだということを思い出した。ワイナリーでも、その効用を活用していることが分かった。
楽しみは、やはり試飲である。試飲室に入り、中年氏と若い女性がカウンターに入った。
ワイン・グラスを片手に、ワインの味わい方の一般論から話が始まった。
《法王の新宮殿》という名の「シャトー・ヌフ・デュ・パプ」は、ローマ法王がブドウ畑を作ったというところから名付けられた、世界に知られている、高級赤ワインである。
プロヴァンス地方は、ロゼと白ワインを主に作られているという。「法王のワイン」のような、赤ワインの生産は少ないそうだ。フランスのロゼワインの65パーセントが、この地産という。
ボルドーやブルゴーニュのワインは我々によく知られているが、その歴史を調べてみると、プロヴァンスこそフランスワインの発祥の地である。それは、今から2600年前のギリシア時代にまで遡る。
フランス語の通訳を交えてのまだるっこさもあるが、それにしても中年氏の説明が長い。わたしは最前より、喉を鳴らしている。それに、もう一人の心の中のわたしが叫んでいる。
「話はもうその辺で、早く飲ませてくれ!」
呑ん兵衛の欲心が、口元まで出かかっている。



中年氏の口の動きが止まって、やっとグラスにありつけた。仄かな香りや、舌の上で転がすのももどかしく、喉元を通り抜けていく。こんな飲み方では、高級ワインも泣いてしまうだろう。確かに、自慢顔の中年氏が言うように、ボディーのしっかりした、こくのある力強いワインである。プロヴァンスの牛肉や羊料理にぴったりと合うに違いない。
本音を言わせてもらうと、わたしはこのような重い、いや高級ワインは好みではない。さっぱりとした新酒が好きだ。
ウィーン(オーストリア)で飲んだホイリゲと呼ばれる、仕込んでから2ヵ月足らずで飲み始めるワインも、水っぽくていただけない。どちらかというと、日本で飲む「ボージョレー・ヌーヴォー」の味がわたしの口に合っている。
イタリアでもスペインでも、ヨーロッパはワインが旨くて安いのがいい。昨日のマルセイユで、ブイヤベースを食べながら飲んだ白ワインも、まろやかで美味だった。新鮮なカサゴやアナゴ、カナガシラを、純正なオリーブ・オイルとサフランで味付けされたブイヤベース。その料理に、ワインがマッチしていたからだろう。



ワイナリーを出てから、辺りを散策した。
点在する糸杉は、ゴッホがキャンバスに描いたように細く天に突き上げている。そんな雄株が多いが、横に枝を張り出した雌株もときどき目にする。傘を広げたような形の笠松は、林を作っていた。
足元の小石混じりのブドウの枝先には、取り残しの萎びた小さなブドウが残っている。埃を払って口に含むと、甘い汁で満たされた。木を低くすればするほど、地熱を受けたブドウの糖度が高まるという証だろう。
傍らでNさんが屈んで、根元の小石に触れている。七十路ほどのNさんは、30年ほど前にフランス政府からの要請で、マルセイユに留学している。政府から与えられた研究テーマは、「ワインを飲むフランス人に何故、膵臓病が多いのか」だという。医者のNさんは、それを機に酒を止めたと、笑いながら言った。興味あるテーマなので、わたしは訊いた。
「研究結果の結論はどうでましたか?」
ニンマリとしながら、Nさんは言った。
「多量に飲むことが病気になる原因ですね」
もっともらし答えが帰ってきて、いささか期待外れだったが、ほっとした。
「大酒呑みはだめだ……何でもホドホドですね」
わたしの言葉に、物静かなNさんは声を出して笑っていた。
乾燥したプロヴァンス地方の土壌は、ワインに適しているという。春の雨は木を成長させ、夏の太陽光で木は力をつけ、冷たいミストラルの強い風に木は鍛えられる。その結果、秋には美味なワインに姿を変えていくのだという結論だ。
ミストラルという、この地方特有の冬に吹く乾いた北風は、台風並みに吹くことがあるそうだ。この風が吹き始めると、人々は戸を閉め切って家に閉じ籠ってしまうという。ブドウにとっても大敵だが、「ミストラルが春を運んで来る」との諺どおり、これが吹かないと春が訪れないのだ。
わたしたちが訪れた二日前まで、ミストラルが吹いていたそうだ。ガイド嬢は言っていた。
「今年はミストラルが早いから、春が早く来るでしょう」
車窓から眺める、丘の斜面に広がるブドウ畑は見事だ。マルセイユからコートダジュール一帯に広がっている。
降り注ぐ陽光を浴び、地中海の碧い海を眺めながら育ったブドウだからこそ、美味なワインが生まれてくるのだろう。






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