南フランスの鷲の巣村


小高い山の上に、石造りの家々が肩を寄せ合っていた。「鷲の巣村」と呼ばれ、中世のころより栄えた山上の集落である。南フランスのプロヴァンスからコート・ダジュールにかけて多く、それぞれの村の雰囲気が漂っていた。
ニースに近い、サン・ポール・ド・ヴァンスの鷲の巣村を遠望する。それは、山麓から山腹の緑を残して、山の上部に繁華街を造ったといった、異様な光景でもある。
駐車場から、木々の茂ったうねる坂を上り始めた。
城壁で囲まれた最上部が、教会の鐘楼である。そのひょろ長いノツポビルのような建物を中心にして、民家は寄り添うようにして続いている。
ゆるやかに、波打つようにカーブを描いた小径は、小川を思わせる。石畳や舗装された道の両側は、二、三階建ての家々が軒を連ねていた。どの家も白や薄黄色の石を組み合わせてできている。
一軒一軒が個性的な家で、そぞろ歩きながら、建物を見て歩いているのも楽しい。だいたいが、工芸品や土産物を売る店で、狭い店の壁いっぱいに絵で飾った画廊も、ときどき見かける。
村の南側の城壁の外側が、サン・ポールの墓地になっていた。麓を見下ろすこの地に、フランスに永住したロシア生まれのユダヤ人画家・シャガールが眠っている。ユリやバラなどの切り花で飾られた墓石には、たくさんの小石が置かれていた。これはユダヤ人の習慣で、訪れた人が置いていくそうだ。
城壁に止まり、遠方をじっと見据える一羽の山鳩は、置物のように動かない。それは、鷲のような風格である。
調和のとれた美しさを持つこの村は、多くの芸術家に愛された。ボナール、モディリアニや、かつてイヴ・モンタンが経営していたカフェも、今でも残っている。
ビオット。トやヴァンスなど、数あるコート・ダジュールの鷲の巣村も、マティスやピカソ、シャガール……など、多くの画家をひきつけた地だ。都会の喧騒から隔絶した、自然豊かで、芸術家を受け入れやすい鷲の巣村が魅力の地であったのだろう。



モナコに近い、地中海の紺碧の海を眼下に見下ろす、エズの鷲の巣村。切り立つ岩山の頂上に城壁を巡らした村は、下からでは見難い。それは、サラセン人の攻撃を防ぐために、海から見えないように造られたからだという。
頂の城址へと続く「ニーチェの道」を上り始める。くねった小径の両側には、石造りの家々がひしめき合っている。どこも、他の鷲の巣村と同じように、民芸品店やアトリエが多い。
あいにくの天気で、南フランスの碧空にはほど遠い、濃い霧に包み込まれた曇天である。辺りの絶景が見られないのが残念だ。
この村は、一、二階建ての小さな石造りの家が多い。どの家も個性豊かで、石畳を歩いていると、御伽の町に迷い入った錯覚にとらわれる。
辺りの山肌一面に、サボテンやさまざまな熱帯樹の植えられた「熱帯庭園」があった。
古い城の廃墟に造られたものだ。白い石灰質の岩肌や、自然の木々の縁に交じり合った熱帯樹の姿が、異様である。
ふだんはここから、深く澄んだエメラルド・グリーンの地中海や、避暑地・リビエラの眺望が素晴らしいというが、今日は濃い霧のベールが邪魔をしている。ナポレオンの出生の地・コルシカ島も遠望できるそうだ。
鷲の巣村を訪ねるたびに思ったのだが、水とゴミの問題である。むろん、水は、今でこそ水道水があるが、古の時代には、その確保は容易ならぬものであったろう。
ゴミ処理は今も昔も変わらないだろう。しかし、「文明の力を借りた何か効率良い方法が……?」と考えながら、もと来た駐車場へ向かう途上で解決した。
偶然にも、ゴミ収拾の光景に出くわしたのだ。それは、城壁側の上部の民家から、長く太い、伸縮自在のプラスチック導管とゴミ収拾車とを結んでいるのだ。これなら、どんな所からでも集められる。個性的な生活を営ん
でいるどの鷲の巣村でも、ゴミ収拾方法だけはきっと、この方法を一様に取り入れているに違いないと思った。
村から町へと、その規模を広げていったのが、レ・ボー・ド・プロヴァンスの村だ。
アルルとサン・レミ・ド・プロヴァンスの間の白い岩山の上の村は、中世南フランスで最強を誇ったという。
車を降りて見上げる「奇岩の山の村〈レ・ボー〉」は、異様な雰囲気に包まれている。
乾いた北風のミストラルにさらされた、白い岩肌といじけた樹形の木々。頂の岩肌から聳える、城塞の廃墟。そんな光景は、文明から見離された最果ての地を思わせた。
しかし、坂道を回り込んでいくほどに、情景が一転した。
小奇麗な石畳と、石造りの家並みが続いている。でもどの家々も、化粧なしの岩肌をむき出している。これも吹き荒ぶミストラルのしわざであろう。



古の時代に手綱を手探り寄せる思いで、静まり、曲がりくねった石畳を上っていくと、頂に出た。
岩山の展望が開けた城塞跡は、思っていたよりも広々としていた。辺りにはさまざまな石造物が点在している。穀倉小屋のような小さな礼拝堂。人が一人、やっと通れる入口と、上部のステンドグラスをはめ込んだ丸窓。屋根の上には、さらに小さな小屋根があり、釣鐘が下がっていた。
鍔のある帽子を被った、農民詩人・リューの石像は、遠方を見すえている。
木製の巨大な井戸掘り機のようなものは、投石機だという。傍には、大砲の弾のような丸い大きな石が野積みされていた。
崩れかけた城塞跡は、人気もなくひっそりとしていた。今でこそ廃墟と化しているが、往時の栄華を伝えるにふさわしい、重厚な造りである。城塞の最上部に着くころには、冬だというのに体は汗ばんでいた。
「鷲の一族」と詩人・ミストラルが言っていた、領主のレ・ボー家。フランス王国などの列強と戦い、一歩も退かなかったという。十三世紀には、イタリアにまで遠征したという無敵な一族だったそうだ。中世のレ・ボーは、
南フランスの文化の中心でもあったという。十五世紀に兵糧攻めで、レ・ボーの難攻不落の城は落ち、名家の血筋が絶えたのだった。
詩人・リユーの石像の目線に合わせてみた。眼下にはオリーブ畑が広がっている。曲がりくねった道路の反対側は、緑の林が続いていた。
目線をそのままにして、ゆっくりと百八十度廻ってみる。遠方の小高い山々が白い岩肌と緑を配して、なだらかな線を描いていた。ここの要塞がいかに、地の利を得ていたかが窺い知れる。
 小競り合いの多かった中世のヨーロッパでは、敵から攻め難くするために山の頂に城を築き、城壁で囲った町を造った。外敵から守るための最良の手段だったのだろう。わたしは、そんな情景を思い浮かべながら、石畳の小径を下って駐車場に戻った。
車は、アヴィニヨンヘと向かう。車窓からは、しだいに鷲の巣村の城壁が遠のいて行った。








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