空港への途上


街の中心部を離れると、しだいに建物も低く粗末になってきて、いつしかスラム街が目立ってきた。このマハーラーシュトラ州には、アウト・カーストのハリジャン(不可触民)が多く住んでいるそうだ。最下層身分で、けがれたものと見なされて差別されている。彼らはヒンドゥー教を捨てて、仏教に改宗している者が多いという。その数350万人で、インドの仏教徒の9割近くを占めることになる。

沿道は、巨大なスラム地区になってきた。空港へと向かうこのダーラヴィの地は、今でもアジア最大のスラムと言われているようだ。建て替えが進んでいるそうだが、見渡したところそんな様子はまったく見られない。

スラムの一画に、巨大な洗濯場があった。数十のコンクリートで区切られた水槽で洗う人、人、人……。洗濯後に吊るされた衣類などは、町を覆ってしまうかのような多さだった。

これらの洗濯物はホテルや一般住宅もので、いわば、巨大な洗濯屋である。ここには、アウト・カーストの人たちが働いているそうだ。




沿道の住宅が少なくなるほどに、緑の木々や農地が増えてくる。立ち枯れたようなトウモロコシの畑も見かける。マハーラーシュトラ州は、農業が盛んな地だ。主な収穫物は、綿花や小麦、米、砂糖キビなどである。綿花と染料の藍は、輸出品としてこの地方の財政を潤してきたという。

同じ西インド地域に入る、隣のグジャラート州。ここも綿花の栽培の盛んな州で、綿布の輸出で豊かになった地帯である。この地は平原部とカッチ湿原から成り、「ギル森林」には、アジアで唯一のライオンが生息している。アフリカ産よりも小型というが、300頭近くいるといわれている。西インドは、動物も植物も豊かな地である。




車窓から眺める、艶やかな若葉色のアショーカの木。強烈に照りつける熱帯の太陽をも物ともせず、枝を張っている。鮮やかな緑の並木は、実に涼やかである。

そんな、心地好い風景をぼんやりと眺めていると、先ほどムンバイで見た、車の混雑した光景が甦ってきた。

「何とかならないのか?」と思われる、都市部の交通渋滞は、いずこも同じである。「世界一広い駐車場」と皮肉られる、タイの首都・バンコクほどではないが、ムンバイも同じように車の洪水だった。

「地下鉄を通せば!」と思い、ガイドのG氏に先ほど訊いてみたら、苦笑いしながらその答えが返ってきた。

「予定はしていますが、50年ほど先になってしまうでしょう」

何と半世紀も先のことであり、その訳も曖昧だ。良く聞いてみると、やっと計画段階に入ったようである。交通渋滞の解決には、まだまだ先のように思われた。

現在のムンバイでは、勤め人の90%が電車通勤だという。生活が豊かになるにつれ、近い将来に車通勤者が増えることは、目に見えている。短期、中期、長期計画を立てて、スピーディーに対処しなければ、「世界一広い駐車場」どころではなくなってしまうだろう。それでなくても、地方から仕事を求めて都市部に集中しているというから、なおさらだ。




ムンバイの歴史を追ってみると、かつてここには、コーリーという漁民が住む7つの島だったそうだ。

「天然の良港」として目をつけた、ポルトガル人が侵略してきたのが16世紀だった。当時この地域を支配していたスルタンから、その7つの島を手に入れたのだった。往時、島の周囲は湿地帯だったが、ポルトガル人は要塞と教会を建てて、「ボン・バイア(良港)」と命名したそうだ。

1661年に、ポルトガルとイギリス王家の婚姻に伴い、ボン・バイアは贈り物としてイギリスに譲渡された。「ボン・バイア」はそれを機に、イギリス風の呼び名で、「ボンベイ」と言うようになったのだ。

現在のムンバイは、政治の中心地のデリーに対して、インド最大の商業都市であり、インドの西の玄関口として、コスモポリタン都市である。

定刻通りにフライトした機は、午後7時半にアウランガーバードの空港に着いた。飛び立ったかと思ったら、すぐに降下体勢に入るといった、あっという間の飛行だった。

時間のかかる、セキュリティー・チェックを受けてから市内のホテルへと向かうので、遅い夕食となろう。


   


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