サーンチーの遺跡群

レスト・ハウスのレストランへの回廊を歩いてい行くと、パパイアの木があった。実がたわわに生っており、花も咲いていた。初めて目にする花を、早速写真に収める。
朝食は、トーストと紅茶のヨーロッパ・スタイルだ。いつもは、たっぷりと食べるアメリカン・スタイルなので、やや物足りない。
軽い食事を終えてから、レスト・ハウスを発ったのは午前7時半だった。バスで5分ほど行くと、サーンチーの遺跡が見え始めた。

近づくほどに、かつて何度も本や写真集で見たことのある、ストゥーパが拡大されていった。今回の旅では、アジャンターとエローラの遺跡とともに、このサーンチーを訪れることを熱望していたのだった。
ここでは、サーンチーの専任ガイドのR氏が紹介された。この青年ガイドのヒンドゥ語での説明を、G氏が日本語に通訳するのだ。しかし、知識豊富でせっかちなG氏は、少々まどろこしそうでもあった。
緩やかな勾配の石畳を上っていき、第一ストゥーパの北門の前に立つ。見上げる、三段の横梁のある石門は、ぎっしりと彫刻されている。その背後には、半球形の巨大なストゥーパが、どっしりと構えていた。
大ストゥーパは、標高100メートルの丘の上にあり、サーンチー遺跡群のほぼ中央の位置にある。なだらかな丘の上に建つ半球形のストゥーパは、2000年以上もの間、風雨に晒されつつ佇んでいたのだ。 直径37メートルで、高さ16メートルの大ストゥーパは、マウリア朝のアショーカ王が基礎を造ったという。その後、紀元前2世紀から1世紀ごろに拡張して、現在の姿になったそうだ。

このストゥーパ(塔)を囲む四方の門(トーラナ)は、見事な彫刻で有名である。特に、この北門と東門に、良い状態の彫刻が残っている。600年間、ジャングルの中に眠っていたとは思えないほど、彫の深い彫刻である。
四方の門の横梁は、どれも三段に組まれている。この北門の上段には、ストゥーパと菩提樹。中段は、菩提樹に礼拝する人々。下段には、ジャータカ(仏陀の前世の話)が刻まれている。特にこの門の彫刻の中で、優れているものが二つある。頂部にある、仏陀が説いた真理を表す法輪と、菩提樹下の瞑想する場面である。
下段の両脇には、横梁を支えるようなスタイルのヤクシー像がある。豊満な肢体をあらわにした、ふくよかな胸と腰。しなやかに体をくねらせて、門を守っている女神である。
時計は、8時になろうとしているところだ。辺りには、夜の冷気が漂っているのか、朝冷えがする。デカン高原は、いつも暑いと思っていたが、ひんやりとした風が吹き抜けているのには驚いた。
振り向いたやや下手の方に、第一塔をひと回り小さくしたような、第三塔が建っている。紀元前2世紀に造られたもので、この塔からは、仏陀の2人の高弟の遺骨が発見されている。現在遺骨は、新しく建てられた寺院の奥に祀られているそうだ。
大ストゥーパの東門に回る。三段の門の横梁には、父王の城を去る仏陀や、仏陀を身ごもって不思議な夢を見る、マーヤー夫人の姿が刻まれていた。左側の像は欠落しているが、右側のヤクシー女神像は見事である。

塔の横には僧院跡があり、今では石柱の1本が残っているだけである。4世紀のグブタ朝時代に、建てられたものという。
西門は、サールナートでの初転法輪(仏陀の最初の説法)の場面が彫られている。上段の横梁には、ストゥーパが3つ並んでいる。
南門は、仏陀の誕生や母マーヤー夫人が、蓮の花の脇に立つ姿が描かれている。左右ともに、横梁の下段と柱の上段には、アショーカ王柱で見るようなライオン像がある。その横には、アショーカ王の石柱がある。基の部分しか残っていないが、磨き上げられた表面は今でも艶やかで、2200年前のものとは思えない。このサーンチーは、アショーカ王妃の生まれた地でもある。王もこの地が好きで、よく訪れていたそうだ。
ストゥーパの外側を囲む、欄(らん)楯(じゅん)の東西南北には、4ヵ所の門がある。この門は、高さ4メートル、幅は2メートルで、どの門にも3本の石柱を横に渡してある。そんな塔門を眺めていると、日本の鳥居の原型のようにも思えた。
南門から欄楯に沿って、右繞行道をするための道が造られている。それは俗世間よりも、僅かに仏陀の悟りの境地に近づいた空間でもある。浄性が高いとされる、人体の右側を中心に向けて、時計回りにお参りする作法である。わたしは、それに倣って右回りをする。もともと欄楯は木製だったが、現在のような石に造り替えたそうだ。
見上げる、ストゥーパの頂部は平らで、方形の欄楯で囲まれていた。その中央には、仏陀を象徴する傘蓋が立っている。
先ほど見た4つの石門を、今度は裏側に回って見た。表とは違ったモチーフの彫刻は、どれも見事である。 第2塔は、ここから500メートルほど丘を下がる。紀元前2世紀に建てられたこの塔は、実にシンプルだ。塔門もなく、お椀を伏せたような造りで、上部は平らである。一見して、黄土色のレンガを積み上げたようなストゥーパだ。

近くに「考古学博物館」があり、この地の出土品が展示されている。残念ながら時間が早過ぎて、まだ開館していなかった。館前の花壇には、朝顔に似たピンク色の花が咲き競っていた。
サーンチーは今でこそ寒村だが、かつては、大小多数の寺院と僧院があった。その数は50余りで、中部インドの仏教の一大中心地となっていたのだ。
この地には、仏陀は一度も訪れたことはない。しかし、仏教に篤く帰依したアショーカ王が、ここにストゥーパを造った。さらに、王子のマヒンダ(マヘーンダラ)のために、僧院を建てたのだ。王子がここから、スリランカへの仏教公布の旅に出たということで、サーンチーは仏教史上の重要な場所となっている。

サーンチーのストゥーパや礼拝堂、僧院などは、紀元前3世紀に造られてから、12世紀まで、新造や改修がなされていたという。
この地にもあったアショーカ王の石柱は、北インドを中心として、インド各地に残っている。その石柱は、仏教聖地の所在を示し、聖地を訪れる巡礼者の道標となっていた。その柱頭に乗るライオン像は、インドの国章になっており、インドの通貨にも描かれている。
   


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