青空に浮かぶタージ・マハル

出勤途上なのだろう、歩道は行き交う人々で混み合っている。車窓から、眩い朝日が差し込んでくる。スピードは落ちているが、バスは渋滞もせずにスムーズに流れて行く。
ホテルから30分ほどで、青空に輝く白いドームのタージ・マハルに着いた。
「タージ」とは「王冠」、「マハル」とは「宮殿」の意だが、実際には宮殿ではない。白大理石造りの世界一豪華な墓である。ムガル帝国第五代皇帝シャー・ジャハーンが、愛妻のために造った廟で、1631年から22年の歳月が費やされている。この廟が世界遺産に登録されたのは、1983年である。
どっしりとした造りの、正門前に立つ。
横250メートル、奥行き350メートルの敷地の外側にある、赤砂岩造りの堂々とした門である。壁面には、白大理石でコーランの章句が象嵌されている。このアーチをくぐると、泉水と庭園を前景にして、タージ・マハルの全容が現れた。


朝日を受けた白大理石の巨大なドームは、パール色に輝いていた。左右対称形のバランスの取れた建物に魅了され、しばし佇んでいた。「人類が地上に残した、一粒の真珠」との言葉が、言い得て妙である。
赤砂岩の最下部と、上層が大理石造りの95メートル四方の基壇。その上に建つ、廟の高さは67メートルある。四隅には、高さ約43メートルの塔が建っている。そのミナレットは、やや外側に向いている。それは、塔が倒れてもドームを逸れて、外側に倒れるように設計されているのである。
どの角度から見ても、均整のとれた造り。それは、イスラム建築の技術を結集した芸術品である。建築狂といわれていた、シャー・ジャハーン。彼は、14人の子をもうけたという、熱愛した妃の死を悲しんで、想いを込めて造ったのだ。
ドームに向かって真っ直ぐに伸びた、泉に沿って白亜の廟に近づいて行く。 基壇の前でオーバー・シューズを履いてから、壇上へ上る。見上げる真珠色の大理石の壁は、覆いかぶさるように迫ってきた。振り向くと、赤砂岩の正門が悠然と構えていた。


廟内に入ると、中央に八角形の部屋がある。その中心には大理石をベースにして、碧玉やメノウ、ルリなどの貴石が嵌め込まれた墓があった。妃の墓で、その横に並ぶやや大きな墓が、シャー・ジャハーンのものである。どちらも仮の墓で、本当の墓は真下の地下にある。十年前に来たときは地下まで行けたが、現在、入口は施錠されていた。
薄暗い廟内を歩いていると、背後から声をかけられた。中背のインド人の青年で、わたしをロシア人かと、英語で言う。日本人だと応えると、小首を傾げて去って行った。
前日のカジュラーホーでも、同じことを言われた。どこがロシア人に似ているのだろうか? と、わたしの方が首を傾げてしまう。きっと、帽子を深く被り、口髭を生やした姿が似ていたのだろうか。後で、ツアー仲間のHさんに言うと、「グルジア人に似ていたのでは?」と、彼女は平然たる顔つきで言った。「グルジア人?」と、わたしは独り語ちながら、また首を傾げてしまった。
廟の内壁のそこここに、小さな窪みがある。それはかつて、宝石が埋め込まれていた跡である。タージ・マハルは、インド産の大理石と赤砂岩の壁面に、世界各地から集めた宝石や貴石が使われた。その取り付けには、ペルシアや中央アジア、イタリア、フランスからの技術者が携わったという。
莫大な費用をかけて、帝国の国力を傾けて建設されたタージ・マハル。それは、ムムターズ妃に対する愛の表現にしては、いささか浪費と見るべきか? さすがのムガル帝国といえども、国は傾いていたという。
建築狂のシャー・ジャハーンはさらに、ヤムナー河の対岸に、黒大理石で自身の廟を建てる計画を持っていたそうだ。その廟とタージ・マハルとを、橋で結ぼうという遠大な構想である。しかし、帝位を狙う三男のアウラングゼープによってアグラ城に幽閉されてしまい、叶わぬ夢となったのだ。


廟から出て、ドームの周囲を巡る。どこから見てもバランスの取れた、優美なスタイルに見惚れてしまう。パール色の白大理石の繊細な彫刻は、華麗さをさらに増幅している。ぼんやりと霞んだヤムナー河の遠方には、アグラ城が黒いシルエットとなっている。
一巡してドームの正面に戻ると、少年たちの一団に取り囲まれた。写真をとって欲しいと言いつつ、カメラをわたしの前に差し出してきた。
十数人が並んだところで、少年たちの持っていた3台のカメラを、次々とシャッターを切る。ネクタイを締めて制服を着た、はっきりとした英語を話す少年たちは、ハイスクールに通っているという。ベナレスから来たという彼らは、かなり裕福な家庭に育っているに違いない。



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