メコン川からラオス領へ


川に沿って、タイ側は建物が多い。対照的にラオス側は、緑一色のジャングルである。岸近くを、笹の葉のように細長いラオスの舟が、エンジン音を轟かせている。反対方向からは、長い家をそのまま浮かべたような青い船が、擦れ違う。ラオスの牛をタイに売りに行く船だと、ガイドのS氏は言う。どの船も、国籍を示すラオスの国旗を付けている。
ジャングルが途切れ、大樹に囲まれた川岸の一部が開けた。椰子の葉で屋根葺きした高床式の家々が続き、その先には平屋建てが10件ほどある。そこには、5〜6隻の小舟が繋留されており、中央にはラオスの大旗がなびいていた。船は速度を落としながら、接岸した。
ビザもバスポートの提示もなく、渡し舟で隣村へ行くような感覚でラオスに入国した。1000円払ったのは、ポート代と入国料なのだろう。上陸した一角には、ニッパ椰子葺きの家々が集落を作っていた。どこも、我々観光客を当て込んだ、土産屋ぱかりである。



店の前では、2羽の七面鳥がポーズを取ってくれる。ふだん見かけない珍鳥(?)に、カメラやビデオの放列で、ペアの鳥はスター気分で喉を鳴らしている。
そんな長閑な光景を眺めていると、かつて麻薬を巡る争いがあった、悪名高い地であったなどとは感じられない。「黄金の三角地帯」とは、タイの北部、ラオスの西部、中国と国境を接する、ミャンマー・シャン州を中心とした地域の呼称である。この一帯で、世界の暗黒街を非合法に流している、ヘロインの70%を供給していたのだ。
三角地帯には、周辺諸国から移動してきた少数民族が住み着き、独自の文化を守りながらケシの栽培をしつつ生活してきた。ヘロイン売買グループの収入は膨大なものだが、ケシを作る山岳民族の生活は悲惨だったという。米の自給もできず、大豆やピーナッツを主食の代わりとして、カボチャの葉や茎や竹を食糧にしていたそうだ。おかずは塩だけというときもあり、その塩さえ手に入らないこともあるという。



どこの店先にもテーブルが置かれ、たくさんの瓶が並んでいる。それはマムシ酒ならぬ、コブラ酒である。中味のコブラは、どれも小さいものばかりだが、喉の辺りを平らに広げた、立派なコブラ姿である。そういえば、船に乗る前のS氏の言葉を思い出した。この辺はコブラが多いのか訊くと、「いっぱいいる。どこにもいる。うちの庭にも出てきたことがある」と、目を丸くして答えてくれた。
店内に入ると、ラオスの土産よりもタイやミャンマー、カンポジアのものが多かった。店の少年は英語ができず、わたしは手真似で交渉をする。自分が売っている商品が、どこの国のものかも分からない状態だ。
ミャンマーのコインと札があったので、値引き交渉をする。彼は自分の手の平にポールペンで値段を書く。わたしはそれを消して、もっと安く書き直す。そんなことを何度か繰り返して、交渉成立だ。ヤレヤレである。
どこの土産屋の人たちも商売気がなく、押し売りすることはない。控え目な態度と柔和な眼差しに、親近感を感じる。
「この人たちも、かつては麻薬に係わっていたのかなあ」と、ついつい思い巡らせてしまう。



S氏が手招きしているテーブルの上には、たくさんの果実が載っていた。
旬の竜眼やランブータンは旨い。初めて口にするのが、柿の味がする実だ。卵形の果実の中は黄褐色で柿そっくりの味である。「チューインガムの木」と呼ぱれている、サポジラの実である。この樹脂を加工するとチューインガムの原料ができるので、そう呼ぱれている。
ちょっと軽く水っぽいが、ラオスの缶ビール「ビァラオ」が、渇いた喉を潤してくれた。
僅か1時間ほどラオスの空気に触れた後、チェンセーンの桟橋へと戻った。
再び車に乗り込み、メーサーイヘと向かう。メーサーイは、ミャンマーとの国境の町だ。サーイ川を挟んで、橋を渡るとミャンマーである。外国人はビザ無しでも1日だけ滞在できるので、当初、ミャンマーに入国することを楽しみにしていた。しかし最近、両国で戦闘があったとかで、我々はメーサーイで下車することができずに、車はUターンしてしまった。
「何かあって日本人が死ぬと、旅行会社が潰れてしまいます」
S氏は声を落として言った。
整備された道路の両側には商店が連なり、どの店も商品が山積みされていた。両国が自由に交易をしている証だろう。




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