アクバル帝の壮大な城跡へ

日中は暑くても、夕方は冷え込んでくる。暑いインドとはいえ、やはり冬の気候である。
これから、40キロ余り離れた城跡を見に行くと、帰りは夕方遅くなってしまう。一度ホテルに戻り、長袖シャツなどを準備してからの再出発だ。
アクバル帝の城だった「ファテーブル・スィークリー」へ向かったのは、午後2時を過ぎてしまった。
賑わった街を出ると、沿道には畑や森が点在している。農家は、その中に点々としていた。どこも菜の花畑で、鮮やかな黄色に染まっている。
一画に荒地があり、数羽の大きな鳥が、土を突いて餌を啄ばんでいる。目を凝らすと、彩色豊かな孔雀である。この辺の木立や畑では、たびたび孔雀を目にすることができた。
「あんなに大きな体で、飛び上がれるの?」と思う。でも、案じることはない。そこは野生で、実に素早い身のこなしは、驚くほどだ。猫などに、襲われることもないだろう。
そういえば、このインドの旅で犬はよく見かけるが、猫の姿は目にしていない。偶然、出合わなかっただけだろうか?
1時間ほどで町に入り、賑わった情景を車窓から眺めていると、ほどなくしてファテーブル・スィークリーに着いた。
赤砂岩の城壁や建物が重厚であり、全体の色が統一されていて気品がある。
1986年に世界遺産に登録されたこの城跡は、1571年に建てられたものだ。世継ぎに恵まれなかったアクバルが、幸運にも、後の第4代皇帝になるジャハーンギールが生まれた。それを記念して、5年余りの歳月を費やして建造され、ここに首都を移したのだ。執務室や宮殿、モスクなどを次々に建て、都の広大な地を城壁で囲んだ。
しかし、14年という短い期間の都だった。帝国の財政が傾いた訳ではなく、その原因は、水不足と夏期の猛暑に耐えかねたからという。
忽然と現れて、忽然と忘れ去られたのが、この都である。建物に傷みが少なく、当時の優雅な造りが今日も残っているのは、そのためだ。


アクバルは、遥か北西のラホール(現パキスタン)に遷都し、ファテーブル・スィークリーはゴースト・タウンとなった。ラホール後のムガル朝の都は、ここには戻らず、再びアグラになったのだ。
遺跡の南側には、「ジャマー・マスジット」があり、北東側には、「パンチ・マハル」がある。建物は、アクバルの理念であるヒンドゥとイスラムの文化的融合が、そこここに見られる興味ある造りである。
ジャマー・マスジットは、1675年に完成した大会堂で、東西168メートル、南北に143メートルある。
南門はブランド・ダルワーザー(高門)と呼ばれ、高さ41メートルある。この門は、アクバルのグジャラート地方征服記念として、建てられたものである。
ヒンドゥ語で、「五」は「パンチ」であり、「パンチ・マハル」は、「五層の宮殿」との意の建物だ。
この宮殿は、列柱が屋根を支えているだけで、四方には壁はない。一階は56本の柱があるが、上にいくほどに面積が小さくなっていく。見上げる一番上の五階は、4本の柱と小さな天蓋のみだ。ここは、天文観測や、夏の納涼用に使われたという。


パンチ・マハルのその姿は、実に優美で華麗である。前回ここに来たときには、見晴らしの良いこの上階に上ることができた。今回も、最上層から城跡を眺めることを、楽しみにしていたのだが、上ることが禁止されていた。それは、投身自殺者がでたからだという。
都城全体のほぼ中央には、「夢殿」と呼ばれている「クワーブガーハ」がある。周囲には、接見室やアクバルの第二夫人宮殿、パンチ・マハルがあり、皇帝にとっては、まことに好都合の位置にある夢殿である。
すでに太陽は西に傾き、城中に建物の長い影を写している。陽射しを受けた赤砂岩の壁面は輝いているが、日裏は、くすんでいて華やぎはない。辺りには、ひんやりとした空気が漂ってきた。城門を出るころには、日がとっぷりと暮れていた。



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